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想像 (そうぞう)

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この美しい日本女性は、

衣をまとっているのだろうか、それとも脱いでいるのだろうか。

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5年ほど前、偶然この一枚の絵に出会った。目が離せなかった。あまりにも美しい衣。鮮やかな藍と黒、そしてわずかに捻られた身体の構図、韓服のチマのようにふっくらと膨らんだ着物の柔らかな曲線美。私に最初に浮かんだ問いは、まさにこの一文だった。

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私が近年見た絵の中で、断トツの1位の作品。気になった。誰が描いたのか、いつ描かれたのか、なぜ描かれたのか、調べてみたくなった。それが始まりだった。

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人は写真を見る。そして絵を見る。私は絵を見るのが好きだ。絵を描いた芸術家の心情を丸ごと感じたいから、感情移入しながら一人の芸術家の作品を眺め、共感することを楽しむ。この絵がそうだった。これが始まりだった。

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あなたは一枚の絵を見るとき、まず題名と解説を読むだろうか。私はまず題名を見ない。解説も読まない。ただひたすら眺めながら、その絵の中で芸術家が表現しようとした一瞬を探そうと努める。だが、現代の抽象画のように、いくら理解しようとしてもどうしても理解できない絵もある。だから後で必ず題名と解説を読む。彼が、彼女が表現しようとした意味を正しく理解するために。

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この絵は勝川春扇(かつかわ・しゅんせん、1762年頃〜1830年頃)の《龍文様の打掛をまとう花魁(左向きの遊女)》である。1830〜1840年頃、掛物絵の木版画。主な所蔵先:アメリカ、サンフランシスコ美術館群(Fine Arts Museums of San Francisco)、リージョン・オブ・オナー美術館、アーヘンバッハ版画素描財団。原題は《左向きの遊女》であり、同版の摺りが大英博物館など複数の機関に分散して所蔵されている。

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ここで重要な事実がある。彼女がまとっているのは、私たちがよく知る着物ではない。打掛(うちかけ)だ。着物は腰で腰紐(こしひも)で結ぶ。身体を円筒形にし、曲線を殺す。しかし打掛は結ばない。肩に掛け、床に引きずる礼装用の上掛けである。花嫁と花魁だけが着ることができた。

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だからこそ、私が最初に投げかけた問いが再び意味を持つ。着ているのか、脱いでいるのか。結んでいないがゆえに、彼女の衣に描かれた見事な藍色の龍は、胸元から尻までそのまま流れ落ちる。この鮮やかな藍は、江戸後期に西洋からもたらされたベロ藍(ベロあい、プルシャンブルー)である。最も高価で、最も濃い青。吉原の最高位だけが使うことを許された色だった。

 

吉原(よしわら)とは、江戸(現在の東京)の郊外にあった日本最大の遊廓、公認の色街である。1617年、幕府が「遊女たちを一箇所に集めて管理する」として作った。単なる遊女街ではない。江戸時代の夢の国、ディズニーワールドだった。壁に囲まれた、街の中の街。入るには一つの門を通らなければならなかった。その中には3,000人を超える遊女が暮らしていた。外では手に入らない酒も、ファッションも、芸術も、その中でのみ許された。江戸の男たちは給料を貯めて、一生に一度吉原に行くのが夢だった。

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階級は徹底していた。金がなければ、道端に立って客を引く端女郎(はしじょろう)。金があれば、部屋で客を取る中散(ちゅうさん)。そして頂点が花魁(おいらん)である。

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花魁は客を選ぶ。客が花魁を選ぶのではない。客は金を払って3回来なければ、会うことすらできない。初日は顔だけ見て帰り、二日目は酒だけ飲んで帰り、三日目になってようやく共に寝ることができる。それほど貴重な存在だ。だからこそ、龍が描かれた藍色の打掛を着ることができたのは彼女たちだけだった。江戸において龍は、男性、権力、将軍の象徴である。それを女がまとうということ自体が、「私はこの吉原の王である」という宣言だった。

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だからこの絵の中の日本女性は、単に綺麗な女性ではない。1830年代の江戸で最も高価で、最も権力があり、最も欲望された女性だった。

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遊女(ゆうじょ)とは、遊ぶ女を意味し、日本では娼婦の総称である。階級はこのように分かれる。

  • 遊女(ゆうじょ):最も広い意味での、身を売る女性全体。

  • 花魁(おいらん):その中の最上位。吉原でのみ使われる呼称。身分が高く、客を選ぶことができる女性。彼女はここに該当する。

  • 芸者(げいしゃ):身は売らず、芸を売る女性。

 

彼女は遊女の中でも花魁である。龍をまとうことができるのは花魁だけだったのだから。

この美しい朝鮮(現在の韓国)の女性は、

立とうとしているのだろうか、座ろうとしているのだろうか。

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この絵は、申潤福(シン・ユンボク、1758年〜1813年以降、没年不詳)、号は蕙園(けいえん)の《美人図(びじんず)》である。蕙園風俗図帖(国宝第135号)と同時期の1800〜1805年頃の作。絹本着色の肉筆画で、現在は宝物第1973号として澗松美術文化財団が所蔵している。

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朝鮮後期の風俗画の二大山脈、金弘道と双璧をなした蕙園。彼の《美人図》は、朝鮮において女性の全身を単独の主人公として描いたほぼ唯一の作品である。肖像画の技法で髪の一筋まで描き込み、背景をすべて消し去った。ただ女一人だけを残す。

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ここで疑問が生じる。この美しい朝鮮の女性は、立とうとしているのか、座ろうとしているのか。立っているようで立っていないような、どこか居心地の悪い姿勢。何かを見つめているようだが、何を見ているのかまったくわからない。彼女はただ左手でノリゲ(韓服の飾り緒)を弄んでいるだけだ。

 

日本の花魁が、生きた龍が天へ昇るように飛び出しそうに表現したのなら、朝鮮の美人は韓服のチマを目一杯膨らませ、女性の曲線美を極大化した。花魁は結ばないから艶かしく、美人図は結びすぎるから艶かしい。朝鮮のチマは三重である。内側の小袖のような裾除け、外側のスカート、そしてその上に下がるノリゲ。縛ってまた縛って身体を隠すのに、だからこそかえって見えてしまう。立とうとしてやめるその曖昧な曲線が、ノリゲを弄るその指一本が、私を狂わせる。

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申潤福が筆で描いた肉筆画《美人図》の中の妓生(キーセン)と、勝川春扇が版木に彫った木版画の中の日本の花魁が重なって見えた。しかし違っていた。朝鮮の蕙園が筆で妓生の裾を持ち上げたように、春扇は打掛で花魁の曲線を、うごめき昇天する龍として摺り出した。朝鮮と日本、描く形式は違ったが、その二つの欲望は同じだった。

同じ版木、違う趣。

あなたはどちらの絵がより気に入るだろうか。

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5年ほど前に私が最初に出会った絵は、右側の鮮やかな藍色の龍文様の花魁だった。その時の感動は今も忘れられない。あまりにも強烈だったがゆえに、今なお残るあの瞬間の記憶。

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当初はただの木版画か、申潤福の《美人図》と似た構図だな、程度に思っていた記憶の中の一枚。

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それから時が経ち、偶然にも左側の同じ版木でありながら黒で摺られた別の作品に出会った。勝川春扇の《龍文様の打掛をまとう花魁》(1810年頃)である。ここでca.はcircaの略で「頃」を意味する。おおよそこの時期という意である。日本の木版画は制作年を記さないため、美術史家たちは顔料と出版様式から年代を推定する。

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つまり右側の作品より約20年前に摺られた版画だったのだ。私はここで衝撃を受けた。すでに20年も前にこの作品が作られていたということに一度驚き、同じ版木でも色が変わるだけでこれほど印象が変わるのかと、再び驚いた。

  • 左の黒い龍。墨(すみ)と藍紙(あいがみ)。藍はすぐに褪せる。だからどんよりと重い。龍は隠れている。

  • 右の藍色の龍。ベロ藍。1830年代以降。褪せない。鮮やかだ。龍は生きてうごめく。

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1810年頃に初版が摺られたこの春扇の龍文様の花魁も、1800〜1805年頃に描かれた申潤福の《美人図》も、そしてこの二人の芸術家の年齢差はわずか4歳。何より構図が似ていること。出身国は違えど、それぞれが自国で最も有名な朝鮮の妓生、日本の花魁を描いたというこの事実自体が、私を心から興奮させた。

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面白くないだろうか。​

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この二作品の似ている点、違う点を探しながら、一人だけの趣味として満足していたある日、私はこの作品に出会った。

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勝川春扇の《虎文様の打掛をまとう花魁》(1810〜1820年頃)。同じ人が描いたとは思えないほど、筆力が落ちたように感じられてならない。華やかさもなく、花魁の位にふさわしくないような印象が強かった。

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これが始まりだった。

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だから私は想像した。

もし私が美術学者なら――​​​

 

「もし私が美術学者なら、この絵について論文をどう書くだろうか」

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歴史的事実に歴史のミステリーを加えて想像してみれば、それは普遍的な想像になりうる。一人だけの妄想ではなく、誰もが「あれ、そうかもしれない」と一緒に楽しめる、ちょっと不埒な想像になりうる。だから本当に書いてみた。本物の美術学生の論文のように。

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専攻とはまったく異なる分野を卒業した韓国系オーストラリア人のデジタルクリエイターが、5年間のオタ活の末に綴った、世界で最も真面目な冗談であり、私の普遍的想像。今、始まる。

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楽しい想像になることを願って

  • Digital Creator / 想像の中の美術学者, Shane Lee @aushanelee​​​​​​​​

題名:黒衣の龍――勝川春扇《龍文様の打掛をまとう花魁》(1810年頃)再考

 

副題:二つの美人図はともに国宝である――1811年、申潤福が乗ったであろう船に関する想像の記録


著者:Shane Lee @aushanelee​​​​

  • 高麗大学校 土木環境工学科(2003年卒)、豪州ル・コルドン・ブルー 外食調理(2011年卒)& UTS 医科学(2020年卒)

要旨

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本論文は、勝川春扇(1762〜1830年頃)に帰属するとされる《龍文様の打掛をまとう花魁》(1810年頃、Lyon Collectionデータベース登録、大英博物館に類似摺り所蔵)と《虎文様の打掛をまとう花魁》(1810〜1820年頃、公的機関の所蔵記録未確認、競売市場流通本)との間に見られる顕著な技量格差を起点とする。

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同一絵師への帰属、類似した構図、1810年代という狭い時間幅にもかかわらず、両作品は顔料の発色と保存状態、衣装シルエットの形態学、細筆の筆法、木版摺りの技法、美術市場における流通状況において著しい差異を示す。とりわけ春扇が1820年代後半に木版画制作を中断し、陶磁器の色絵へ転向した点は、同時代の浮世絵師の中にあって異例である。

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本研究は、正祖代以降の朝鮮後期絵画史の時代相、図画署制度の変遷、申潤福(1758〜)《美人図》の形式分析、浮世絵分業システムの工学的分析、オークション・データベースの分析、金弘道の画法との比較、1811年辛未通信使の対馬滞在記録と倭館訳官の役割、申潤福の外家姻戚にあたる訳官・皮宗正の対馬随行記録、釜山倭館における顔料流通経路を総合的に検討し、一つの仮説を提示する。さらに、図画署から逐出された画工が日本へ渡ったとすればいかなる作品を携えたかという美術史的推定を加え、計二つの解釈可能性を統合的に論じる。本稿は二つの仮説のいずれかを断定するものではなく、両者を併置することで今後の研究の端緒を提供することを目的とする。

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  • 仮説1 影響仮説:春扇が申潤福《美人図》の形式から着想を得て、日本的様式へ再解釈した可能性。

  • 仮説2 追加作品搬出可能性の推定:図画署から逐出された画工が日本へ渡ったとすれば、随伴した可能性のある追加作品群に関する美術史的推定。

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なお、本稿は日本浮世絵の芸術的価値を貶める意図を一切持たない。むしろ《龍文様打掛》系は大英博物館の類似本所蔵が示す通り、技法的完成度において既に博物館級の優品として評価されていることを前提とする。

龍の文様をまとった花魁?これ、申潤福の《美人図》にそっくりじゃないか。着物であんな豊かな曲線美が出るはずがない。いったい何なんだ、これは?って思ったんだ。もちろん最初に出会ったのはこの黒い初版本じゃなくて、1830〜40年頃の、あの青い方の作品だったけど。とにかくこの絵を見た時、思わず息を呑んだ。あまりにも美しかったから。

龍文様の花魁、勝川春扇(1810年頃)

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第1章 天才は同時期に退歩しない

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1.1 勝川春扇の略歴


勝川春扇(かつかわ・しゅんせん、1762〜1830年頃、別名二代目春好)は、版本および浮世絵様式の木版画デザイナーとして、風俗画、風景画、西洋式遠近法を用いた美人画で知られる。当初は琳派の絵師・堤等琳三世のもとで春林(しゅんりん)と号して学び、1806〜1807年頃に勝川春英の門に入り、小島町春扇を名乗り、のちに勝川春扇と改名した。1820年に勝川春好の初代を継ぎ二代目となる。1821年頃以降、版画および版本挿絵の制作を中断し、陶磁器の絵付けに専念したとみられるが、この転向の正確な理由は知られていない。浮世絵市場の経済的要因や陶磁器装飾の商業的機会に影響された可能性が指摘されるものの、その決定を明確に説明する文書的証拠はない。​​​

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[学術的注記――陶磁器への転向の異例性]

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第一に、同時代の浮世絵師の作歴の持続性を考慮する必要がある。葛飾北斎(1760〜1849)は70代以降も新作を発表し木版画制作を継続し、歌川派の国貞らも高齢に至るまで版画制作を維持した。一方で春扇が60歳前後で大型の錦絵から小型の陶磁器絵付けへ活動の場を移したことは、勝川派の中にあっても異例の事例と評価される。

 

第二に、1810年頃の《龍文様の打掛をまとう花魁》(Lyon Collectionデータベース登録、大英博物館に類似摺り所蔵)の制作技法を見れば、転向の落差はさらに際立つ。多版多色の重ね摺り、暈し、雲母摺りなど、当時の高級技法が集約された作例に他ならない。この水準の技術を駆使した経歴を持つ絵師が、わずか10年余りで版画制作を中断し陶磁器の絵付けに専念するに至った経緯については、経済的要因、陶磁器装飾市場の商業的機会など諸説が提起されてきたが、これを明確に説明する文書的証拠は現在まで確認されていない。

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第三に、本稿はここで一つの解釈可能性を検討する。もし1810年頃の《龍文様の打掛をまとう花魁》の制作過程に、外部の原画制作者の協業が関与していた可能性を考慮すれば、協業関係の変化以降、作品の制作方式や水準に変動が生じた可能性を排除しがたい。《虎文様の打掛をまとう花魁》に観察される技量上の格差も、こうした文脈において解釈する余地がある。無論、これは現在まで直接的な文書証拠が確認されていない推定であり、今後の資料発掘による検証を要する。

版元は春扇が担って、絵の方は外部の人が描いたんじゃないかって考えたんだ。今でいうコラボみたいなものを想像した。だって《龍文様の花魁》みたいな最高級の作品を作れる人が、その後《虎文様の花魁》(1810〜20年頃)をあんなに手を抜いたみたいに作るなんて、どうしても納得できなかったから。最高の芸術家なら、常に最高のものだけを見せるはずなのに、それとはあまりにもかけ離れていた。その時、一人の人物が思い浮かんだ。

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1.2 金弘道との比較――天才の筆力は狭い時間幅のうちに崩壊しない

 

金弘道(キム・ホンド、1745〜1806年以降)は朝鮮最高の画員である。彼の虎の絵を見てみよう。《松下猛虎図》と《竹下猛虎図》は制作時期が数年異なるにもかかわらず、筆力、虎の筋肉描写、髭の細筆、背景処理において同一の水準を維持している。天才画家の技量は狭い時間幅のうちに崩壊しない。これが美術史的常識である。しかし春扇の1810年代の作品において、その常識は崩れる。

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  • 1800〜1809年の作品群:比較的平面的な構成、低彩度、円筒形の垂直襞、単版中心の摺り

  • 1810年頃《龍文様の打掛をまとう花魁》(Lyon Collectionデータベース登録、大英博物館に類似摺り所蔵):多版多色、暈し、雲母摺り、三重の重ね摺りなど最高級技法を総動員、立体的描写、釣鐘型S字シルエット。大英博物館の類似本所蔵が示す通り、既に博物館級の優品として評価されている

  • 1810〜1820年頃《虎文様の打掛をまとう花魁》:再び単版へ、平面的構成、重ね摺り技法未使用、垂直襞への回帰

 

同一絵師への帰属、同一構図、同一主題(猛獣文様の打掛をまとった高位の花魁)であるにもかかわらず、1810年代という狭い時間幅に現れるこのような技法的・形式的格差は、単一作家の内的変化のみでは説明しがたい。制作主体の変化を含め、多様な解釈可能性を検討すべき箇所である。金弘道の事例のように、天才画家はそうではなかった。春扇の事例は同一人ではない別の筆致の介入、すなわち外部の原画者との協業可能性を推定させる最も強力な形式的根拠となる。​​​

松下猛虎図、金弘道(1780年代頃)

虎文様の花魁、勝川春扇

(1810-1820年頃)

竹下猛虎図、金弘道(1790年代以降)

1.3 見過ごしていた点――木版画という点:名品と普及品の共存

 

先の1.2の比較には、私が見過ごしていた重要な前提がある。金弘道の虎は肉筆画であり、春扇の花魁は木版画であるという点だ。

 

金弘道の《松下猛虎図》と《竹下猛虎図》は、朝鮮最高の画員が一点のために筆を執った結果である。世に一点しかない肉筆画であるがゆえに、筆力が狭い時間幅のうちに崩壊する理由がない。最高の画員が最高の精魂を傾けるのが当然である。

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しかし春扇の二つの花魁は、摺り出す絵である。同一の原図であっても、どのように摺るかによって名品にもなり、普及品にもなる。木版画は複製を何枚も作ることができ、制作単価によって等級を分けて販売できるということが、肉筆画との決定的な違いである。

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先に図版として提示した二作品を改めて比較してみよう。一つはLyon Collectionデータベースに登録され、大英博物館に類似摺りが所蔵されていることが確認されている1810年頃の《龍文様の打掛をまとう花魁》で、多版多色、暈し、雲母摺り、三重の重ね摺りなど当時の最高級技法が集約された高級仕様に該当する。もう一つは現在まで公的機関の所蔵記録が確認されておらず、競売市場流通本を通じて知られている1810〜1820年頃の《虎文様の打掛をまとう花魁》で、単版中心で重ね摺り技法が用いられていない普及型仕様と推定される。

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この二点を並べてみると、1.2で提起した技量格差に対する別の解釈が可能になる。

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第一に、版元の価格分化戦略である。《龍文様の打掛をまとう花魁》は多版多色、暈し、雲母摺り、三重の重ね摺りが総動員されたラグジュアリーな名品仕様に該当する。一方で《虎文様の打掛をまとう花魁》は金箔と重ね摺りを省略し、単版中心で摺られた大衆向け低価格仕様として制作された可能性がある。同一図案を高級と普及に分けて販売することは、江戸の出版業界における一般的な慣行であった。したがって虎文様に観察される技法的単純さが、春扇個人の技量退歩ではなく、版元の意図的な商品戦略の結果である可能性がある。

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第二に、版木の摩耗である。版木は消耗品である。何百枚も摺れば線が潰れ、細筆が鈍くなり、それ以上の精巧な摺りは不可能になる。龍文様で既に商業的成功を収めた版を摺り続ける過程で、我々が現在競売流通本で目にする虎文様の鈍い線と平面的な彩度が、後摺りの摩耗の結果である可能性も排除できない。​​​

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したがって私は1.2で提起した「技量格差」を春扇個人の退歩と断定しない。むしろ龍文様が博物館級の名品、虎文様が大衆向け普及品という二重構造として理解すれば、1810年代という狭い時間幅の格差は、作家論ではなく出版・流通論の問題として再解釈する余地が十分にある。《虎文様の打掛をまとう花魁》の水準が低いからといって、その絵師本人の水準まで低いとは限らないという点を本稿は認める。

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無論、この解釈も現時点ではLyon Collection登録画像と競売流通本の画像のみに基づく推論という限界があり、初摺りと後摺りの実物比較、残存版木の確認など、今後の実証研究による検証を要する。

1.4 流通――市場は既に原版と低価格再版を区分していた

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先の1.3で推定した名品と普及品の二重構造は、流通経路においてもその差異が確認される。

 

まず1810年頃の《龍文様の打掛をまとう花魁》類型は、本稿が確認した限りにおいて公開競売市場での取引履歴が確認されない。Lyon Collectionデータベースに登録され、大英博物館に類似摺りが所蔵されていることが確認されている当該類型は、現在まで民間競売データベース上で同一仕様の取引事例が報告されていないという点で、流通が限定的な博物館級仕様に該当する可能性を示唆する。​

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一方、1810〜1820年頃の《虎文様の打掛をまとう花魁》類型は、現在まで公的機関の所蔵記録が確認されておらず、競売市場流通本を通じて知られている類型であるという点で、先述の龍文様の博物館級類型とは流通経路自体が区別される。これは同一の花魁構図内においても、高級多版本と低価格単版本が流通段階から区分して評価され、流通していたことを示す事例として解釈しうる。無論、これは現在まで確認されたオンライン・データベース上の履歴に基づく推論であり、今後競売カタログ原本および落札記録の追加確認による検証を要する。

表1 二作品の所蔵および流通現況の比較

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後になって気づいたんだけど、私はずっと肉筆本、つまり筆で描く絵っていう視点からしかこの絵を見ていなかったんだ。中高の歴史の授業で習った金弘道と申潤福、風俗画で覚えていた朝鮮の有名な二人。その中でも申潤福の《美人図》、この絵とそっくりじゃないか?って。無意識のうちに「絵=筆で描くもの」っていう固定観念が自分の中にあったんだ。口では木版画だって分かってるのに、頭の中では申潤福の《美人図》みたいな肉筆画を基準にしてしまっていて。だから虎文様の花魁が龍文様の花魁より後に出たなら、金弘道みたいに同じレベルの筆力の二枚が出てくるはずだって、勝手に思い込んでたんだ。自分でも気づかないうちにね。韓国には木版画がない。だから疎かった。でも調べていくうちに、木版画って、大衆向けの作品と、名品・ラグジュアリー作品って、二つのグレードに分けて売れるっていう面白い特異点があるって知ったんだ。日本の流通システムもそこで初めてちゃんと調べるようになった。一人の芸術家の傑作に触れて、自分の狭い視野がパーンと弾ける経験。これは本当に味わってみないと分からない。めちゃくちゃ痺れた。

第2章 美人図と龍文様の打掛をまとう花魁の形態的同一性について――筆と見えたのは刀の記録

申潤福の《美人図》と勝川春扇の《龍文様の打掛をまとう花魁》は、制作背景と所蔵先を異にしながらも、造形的様式において驚くべき同一性を示す。

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申潤福(シン・ユンボク)の《美人図》と勝川春扇の《Oiran with Dragon Pattern》は、制作背景と所蔵先は異なるが、造形的形式において驚くほどの同一性を示している。​​

​​第一に、背景の省略である。

朝鮮後期の風俗画の一般的定型は、人物と背景の有機的結合にある。金弘道や金得臣の美人図は、山水、怪石、家屋など具体的な空間を配置して物語を補完する。しかし申潤福はこのような背景を白紙として完全に削除し、ただ女のみを浮かび上がらせる。世界を消して、女という存在そのものにのみ集中させる破格である。《龍文様の打掛をまとう花魁》もまた同一の構成を採る。日本浮世絵の美人図の定石は、柱、建具、庭園などの室内装飾を配することにあるが、《龍文様の打掛をまとう花魁》ではすべての背景が省略されている。これは江戸時代の浮世絵にあっては極めて例外的な事例であり、申潤福形式の影響可能性を示唆する。

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第二に、衣装のシルエットである。

申潤福の美人図における韓服のチマは、鐘形に豊かに膨らみ、襞はS字曲線をもって流麗に処理される。実際の韓服構造を写実的に描いたものではなく、女性の曲線美を極大化するために理想化された筆法である。日本花魁が着用する打掛の定石は、円筒形構造に基づき襞が垂直に落ちることが原則である。しかし《龍文様の打掛をまとう花魁》の衣装は、垂直の襞ではなく、朝鮮韓服と同一のS字曲線による鐘形シルエットを示す。着物の物性を無視し、韓服式の理想化を適用したものであり、朝鮮式筆法の直接的な移植として解釈する余地がある。打掛の円筒形構造を無視したS字曲線の適用は、日本の絵師集団内部の慣性的変形のみでは説明しがたい。

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第三に、細筆の筆癖と濃艶な彩色である。

細筆による繊細な筆線と濃艶な彩色は、画家の指紋として作用する。とりわけ唇、頬、衣の紐に点の如く打ち置く濃艶な紅色と、眉や髪を描く極細筆の運用は繰り返し現れる。彩度を極度に高めた臙脂の使用と、輪郭線の内側にわずかに滲ませる手法は、申潤福作品全体を通じて一貫して観察される。こうした特徴が韓国の宝物《美人図》と日本の《龍文様の打掛をまとう花魁》に同一に現れることは、同一の造形語彙と色彩感覚を共有することを示す重要な視覚的証拠である。媒体の差異を超えて現れる筆癖の一致は、図像の伝播経路を推定する手がかりとなる。​​

美人図、申潤福(1800年代前後)

龍文様の花魁、勝川春扇

(1830-1840年頃)

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第四に、顔貌の造形と髪型の誇張である。

申潤福の美人図における顔貌は、額が広く顎が尖る逆三角形の構図をなし、眼は細く長く横に裂けた三白眼として処理される。これはやや退廃的かつ濃艶な印象の具現である。とりわけカチェ(加髢)は実際より二倍以上に誇張され高く聳え、巨大な造形美を形成する。《龍文様の打掛をまとう花魁》の顔貌もまた同一の逆三角形の比例と三白眼によって構成されており、これは日本の花魁の丸い顔立ちと垂れ目という定石とは全く異なる造形である。また日本式の髷は通常後方で低く結うのが原則であるが、《龍文様の打掛をまとう花魁》の髪型は朝鮮式カチェの如く垂直に高く聳える形態を採る。顔貌の比例と髪型の誇張方式に至るまで一致する点は、両作品が同一の美意識を共有することを示す決定的な箇所である。

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無論、本考察は現存する図版およびLyon Collectionなど公開画像に基づく形式比較に依拠するものであり、顔料分析、紙質調査、落款・印章の実物対照など、自然科学的検証による後続研究を要する。

私は勘違いしていた。春扇が描いた絵は筆ではなく刀だったんだ。その刀であの柔らかい曲線を削って作り出す。一体どれだけ難しいことか?筆で描いた絵と比べること自体が間違っていたんだ。彼が申潤福の美人図に影響を受けたのかどうかは私には分からない。でもこの絵の構図と色は、申潤福を思い起こさせるには十分すぎた。だから仮説1を立てて、しつこく探し始めたんだ。申潤福が表現していたあの冴え渡るような青を、私は《蕙園伝神帖》で見た記憶が確かにあるから。その話は後で詳しくする。

第3章 勝川春扇《龍文様の打掛をまとう花魁》の形式分析

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3.1 顔料形式:朝鮮伝統の藍・臙脂とベロ藍・朱砂の比較​​​​​​​​

表2 顔料形式比較

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​対象は初摺そのものではない。1810年頃の初摺において龍文様は黒色で表現されており、これは当時ベロ藍が高価であったことによる物理的制約と見られる。本研究が注目するのは、1830〜1840年代の後摺において龍文様が高彩度のベロ藍に置換されて現れる現象である。この現象は1830年代の藍摺絵流行という同時代的背景の中で理解しうるものであり、本章ではその技術的側面を分析する。一方、申潤福は《蕙園風俗図帖》(1805年頃)全般において既にベロ藍系を熟練して用いており、朝鮮における受容が日本の流行に先行していたことがわかる。ただし肉筆画と木版画は技法上直接比較は不可能であり、とりわけ木版画における重ね摺り効果と類似した濃淡調節を肉筆画で具現した《蕙園風俗図帖》の事例は、その熟練度の点で高く評価しうる。

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左:申潤福《双剣対舞》、右:《ブランコ》 / 《蕙園伝神帖(蕙園風俗図帖)》より - 澗松美術館所蔵 / 1805年頃

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この二図において申潤福は、その美学世界の絶頂を示している。天然顔料である藍と臙脂、輸入高級無機顔料であるベロ藍と朱砂、さらに墨を交えて多彩な色を表現した。そしてその色の用い方が天才的である。主人公にのみ、より鮮やかな赤とより鮮やかな青を用いる。観者の視線を強制的に掴むのである。

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第一図、中央で剣舞を舞う女性が主人公である。第二図、ブランコに乗ろうとする女性が主人公である。彼は朱砂を用いて鮮やかな赤を作り出し、その赤一つで視線をがっちりと掴む。この特徴は後代の高士人物図にもそのまま継承される。鮮やかな赤い服の童僧を中央に配置し、樹木を利用した三角形構図によって没入度を極大化する。一枚の中でまず童僧に目を向けさせ、周囲の人物へと自然に視線を移させる。観者の視線を誘導する彼独自の天才的発想は、既にこの絵に始まっているのである。

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左側の剣舞を舞う鮮やかな赤いチマの舞姫を見た後、自然と右側の舞姫に目が移る。彼女のチマは臙脂で彩色されている。右側の鮮やかな赤いチマの女性を見た後、視線は自然に鮮やかな青をまとい髪を長く編んだ女性へと移る。申潤福は高価な顔料を主人公にのみ用いて特別性を追求した。それも1805年頃に。この事実一つをもってしても、彼がいかに天才的な色彩感覚を持っていたかを改めて悟らされる。

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併せて先に見た申潤福の《美人図》においても彼は同一の文法を用いる。全体は藍で落ち着いて敷き、脇の下から出た細い紐のような決定的なポイントにのみ、ごく少量の朱砂を用いたのである。

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そして30年後、春扇の《龍文様の打掛をまとう花魁》(1830〜1840年頃)を改めて見るとベロ藍が用いられ、若干の臙脂が見られる。朱砂は用いられなかった。当時日本で流行した藍摺絵の技法である。理由は木版画の実用性にある。1830年代の日本においてベロ藍は中国経由で大量輸入され価格が下がり大衆化した。しかし朱砂は依然として高価であった。数百枚を摺らねばならない木版画の特性上、高価な朱砂を用いることができなかったものと予測される。ゆえに後代に制作された《龍文様の打掛をまとう花魁》(1830〜1840年頃)は、大衆化されたベロ藍を主力とし臙脂で補助するという実用的な選択をしたのである。

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申潤福の美学世界は見れば見るほど深みに引き込まれる。時代を先駆けた芸術家である。同じ時代の天才画家金弘道も著名であるが、色彩感覚まで兼ね備えた申潤福の作品の前では感嘆を禁じ得ない。​​​

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3.2 顔料特性の比較

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申潤福は、朝鮮の藍や臙脂のような伝統顔料に、輸入高級顔料であるベロ藍と朱砂を混ぜて、彼の絵に非常にうまく反映させている。

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鮮やかな赤:朱砂あるいは石間硃

  • 成分:無機顔料。水銀+硫黄(HgS)/酸化鉄

  • 特徴:臙脂・紅といった有機顔料とは異なり、光による褪色が生じない。500年を経ても鮮やかさを保つ。

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鮮やかな青:ベロ藍

  • 成分:無機顔料。フェロシアン化鉄(Fe₄[Fe(CN)₆]₃)/プルシアンブルー

  • 特徴:朝鮮後期、日本を経由して舶来した輸入顔料。藍とは異なり深く透明で発色が強い。18世紀以降、東アジアにおいて最も高価な青色であった。

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識別法は次の通りである。

  • 淡い桃色・肌色で褪色した印象 → 臙脂/紅(有機・変色性)

  • 現在見ても目に刺さるような鮮烈な原色の赤 → 朱砂/石間硃(無機・不変)

  • 深く澄み、仄かに光を放つ鮮やかな青 → ベロ藍(輸入無機・高価)

表3 蕙園の絵に使用された顔料特性の比較

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時間が経つにつれて、自然とこんなことを考えるようになった。春画を描いて図画署から追放されたっていう申潤福。一体どんな絵を、どれだけ艶めかしく描いたら追放されるんだろうって。でも上の《双剣対舞》と《ぶらんこ》だけ見ても答えは見える。このくらい色を自在に操って、視線まで設計できる人だ。春画を描いたとしても、ただエロいだけで描くはずがない。想像してみたんだ。もし彼が春画を描いたとしたら、この色彩感覚と構図をそのまま活かしたはずだって。鮮やかな赤とベロ藍で主人公を掴んで、いろんな構図で物語を作る、一つの物語になっている絵を、こっそり両班の家に売ったんじゃないかって。もちろん朝鮮は儒教の国だった。厳しく禁じられていたことだから、そんな危ないことをするはずがないんだけど。でも想像してしまったんだ。もし描いたとしたらきっとこう描いただろうなって。ふふふ。彼が描いた春画、見たくてたまらないのに、今はもう韓国では見られない絵だから、本当に悔しい。

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3.3 衣装形式:日本打掛の垂直性と《龍文様の打掛をまとう花魁》の鐘形シルエットに関する形態学的考察関する形態学的考察

 

日本打掛の定石は、円筒形構造に起因する垂直の襞である。これは着物の裁断特性上、必然である。しかし《龍文様の打掛をまとう花魁》(1810年頃)の裾は円筒形を脱し、鐘形に豊かに膨らんでいる。これは日本打掛においては異例の形態である。

 

注目すべきはその表現技法である。この柔らかな鐘形曲線と襞のボリュームが、筆ではなく木版、すなわち刀によって刻まれたという点である。直線的な彫りが主流をなす木版画において、このような柔軟な曲線を精巧に具現したことは、当時の彫師の高い技術水準を示している。

 

一方、《虎文様の打掛をまとう花魁》(1810〜1820年頃)は再び垂直の襞へ回帰する。

 

こうした鐘形シルエットは、先に検討した申潤福の《美人図》《双剣対舞》などに見られるチマ幅の表現と類似する側面がある。直接的な影響を断定することはできないが、形態的類似性として注目に値する。

表4 衣装シルエット比較

3.4 摺り技法比較から見た流通の持続性​

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​​​​既に第1章1.4で見たように、高級型と普及型は流通段階から区分して評価・流通された。この区分は摺り技法の比較を通じてより明確に確認できる。

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特に春扇の《龍文様の打掛をまとう花魁》の場合、初摺と推定される1810年頃の版では龍文様が墨色に近い黒で表現された一方、彼の没後と推定される1830〜1840年頃の後摺では鮮やかな青色へと変化する。これは1830年代以降のベロ藍(ベルリンブルー)輸入による藍摺絵流行の時期と重なる。作家の没後、流行を追って版元が需要に合わせて再版した可能性を示唆し、摺り色の変化そのものが流通の持続性と市場性を示す代表的な事例といえる。

表5 印刷技法比較から見た流通段階の区分

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3.5 絵画比較における相違点――目の下の陰影の有無

 

絵画比較における相違点として挙げられるのは、目の下の陰影の有無である。申潤福《美人図》の特徴の一つである目の下の陰影(涙黒子)は、妖艶な美人図表現において繰り返し現れる細筆の筆癖である。一方、春扇の《龍文様の打掛をまとう花魁》にはこのような陰影は現れない。

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本稿はこれを単なる技術的限界とは見なさない。木版画においても胡麻摺りのような点描技法により微細な点の表現が可能であるためである。したがって目の下の陰影の不在は、瑕疵なき白玉のような肌を理想とする浮世絵美人図の表現規範による選択的省略として解釈するのが妥当である。すなわち、朝鮮では個性を付与する要素であったものが、日本では理想美のために消去される要素へと転換されたのであり、これは構図・色彩・シルエットなど形式全般の差異を理解する手がかりとなる。

 

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3.6 背景省略構図の比較

 

背景処理の方式においても形式的類似性が確認される。朝鮮の伝統的画員である金弘道や金得臣らは山水や家屋を配置して物語を構成するのが一般的であるが、申潤福は背景を白紙として完全に削除し人物のみを浮かび上がらせる破格を示す。春扇の場合も注目に値する。喜多川歌麿や鳥居清長ら一般的な浮世絵美人図が柱、建具、庭園など室内外の背景を積極的に活用するのに対し、《龍文様の打掛をまとう花魁》では背景が白紙として省略されている。

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これは朝鮮における破格と日本における破格が同一の地点で出会う形式であり、背景省略という構図的類似性を示す代表的な事例といえる。

《행려풍속도병(行旅風俗圖屛)》 중 계유년(1813년) 작인 <기려도교(騎驢渡橋)> 원본은 나귀를 탄 선비가 외나무다리를 건너는 정경을 담은 작품

この二作品のうち、

どちらが申潤福の作品に見えるだろうか?

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答えは、どちらも申潤福の作品とされているものである。左は《驢馬渡橋図》(1813年)、右は《故事人物図》(1811年)である。

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違いがあるとすれば、左の《驢馬渡橋図》は推定作でありながら、韓国では彼の公式な最後の作品として扱われているという点である。しかし、何かおかしくはないだろうか。先述の通り、一人の芸術家の画風が短期間にこれほど急変することはあり得ない。

 

右の《故事人物図》には、《蕙園伝神帖》(1805年頃)の《双剣対舞》や《鞦韆》のように、彼の存在がはっきりと現れている。《蕙園伝神帖》の延長線上、まるで付録のように見える。中央で視線を一気に奪う鮮やかな赤い衣の童子――その差し色は朱砂によって与えられている。そして彼は我々の視線を下へと誘導する。白い道袍をまとった一人の老人。三角構図によって、我々はこの二人のみに完全に集中させられる。まさに《双剣対舞》や《鞦韆》で見た、視線を操る彼独自の手法そのままである。1805年頃の《蕙園伝神帖》から1811年の《故事人物図》まで、5年、10年が経っても彼の様式は全く変わっていない。むしろ世界観は拡張された。この絵の物語の背景は朝鮮ではなく、中国であった。

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一方、左の《驢馬渡橋図》は、一見するとどこか物寂しさ、侘しさを感じさせる山水画に見えた。目を引く特徴は何もなく、ただ平穏な日常の一場面を描いた絵として迫ってくる。この絵の作者が申潤福でないと言われても信じられるほど、これまで見てきた申潤福の様式とは全く異なる。ある人は言う。晩年の侘しさを、このように自然を描き悠々自適に慰めたのだと。私の考えは――さて、どうだろうか。

第4章 1813年、「最後」という言葉について

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本章では、現在申潤福の最晩年作として知られる国立中央博物館所蔵《申潤福筆〈驢馬渡橋図〉等行旅風俗図四幅》(癸酉年、1813年款識)を対象に、その作者推定の経緯について検討する。

《행려풍속도병(行旅風俗圖屛)》 중 계유년(1813년) 작인 <기려도교(騎驢渡橋)> 원본은 나귀를 탄 선비가 외나무다리를 건너는 정경을 담은 작품

騎驢渡橋、申潤福筆と推定(1813年)

1. 対象及び問題意識

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当該作品は、国立中央博物館所蔵《申潤福筆〈驢馬渡橋図〉等行旅風俗図四幅》であり、「癸酉年(1813)」という墨書の款識のみを根拠に申潤福55歳の作と推定されてきた。現存作品が50点余りに過ぎないという希少性ゆえに、「最後の作品」という象徴性が付与されてきた側面がある。ただし、希少性自体が真贋を担保する基準となり得るかは検討を要する。

 

ここで作品名の前に付く「筆」に注目する必要がある。美術史図録において「作」が作家本人の款署が確認された確定作を意味するのに対し、「筆」は画風と筆致を根拠に当該作家の作と見なされるものの、本人の直接的な款署を欠く推定作に用いる慣用的表現である。すなわち、当該四幅は所蔵先図録上でも既に推定作として分類されている。

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何よりも蕙園は、現存作のいずれにおいても制作年を直接記した例が稀である。

  • 款署:作家が作品に直接記した署名と落款を意味する一次的制作情報

  • 款識:所蔵者や後代の鑑識者が来歴や作者を識別するために別紙で添付した二次的記録

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本作品の場合、作家本人の款署は確認されず、「癸酉年」という款識のみに依拠して作者が推定されたという点で、判断の根拠が脆弱であるとの意見が存在する。

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2. 筆致と落款形式についての疑問

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蕙園は《蕙園伝神帖》30点を通じて比較的一貫した筆致を示す。繊細かつ流麗で、髪一筋に至るまで生きた筆線である。しかし本屏風の款識は筆画に骨気が欠如しており、字形を模写したかのような印象を与える。筆勢が虚浮であり、蕙園特有の凝集された筆線とは距離が遠い。

 

また、蕙園の前作が一般的に款署と図印の結合を通じて自尊を示す形式であるのに対し、本屏風では作者本人の款署と図印が確認されない。1811年作《故事人物図》が「嘉慶辛未 朝鮮國蕙園寫 京師画員」という明確な款署と印章を通じて自尊を示したこととは対照的である。参考までに、ここでの寫は「描く」という動詞であり、筆者自身が直接描いたことを明らかにする自尊の表現である。

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3. 画風の連続性についての再検討

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55歳は技量が急激に退歩する年齢とは見なし難い。本屏風に見られる人物処理や空間構成は、蕙園の全盛期の作とはやや距離があるように見える。

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併せて「困窮して市中で商業画を描いた」という通説についても問いを投げかけることができる。商業的目的であれば、需要の高い妓女、風俗、春画が優先されたはずである。敢えて需要の少ない山水画を四幅屏風に仕立てたという説明は説得力に欠ける。

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特に1811年作《故事人物図》とわずか2年差であるにもかかわらず画風の変化幅が大きい点は注目される。《故事人物図》における鮮烈な輸入顔料の発色、三角形構図による没入感、童子を活用した演劇的演出と比較すると、1813年屏風はその密度が著しく低い。

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4. 小結に代えて――再検討の提案

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本考察は《行旅風俗図屏》を断定的に偽作と判定しようとするものではない。ただ、既存の「最後の作品」という規定について、筆致、落款形式、画風の連続性という観点から再検討の余地があることを提起するものである。今後、精密な化学的顔料分析と比較研究を通じてより綿密な把握がなされることを期待しつつ、本稿を括りたい。​

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だから私は1813年を閉じることにした。絵に書かれた文字と落款が他の絵と違うという指摘がある。画風も違うという話もある。異論と論争のある場所だ。そこは私が語る場所じゃない。私は争いのない場所へ行くことにした。彼が確かに生きていた年へ。まだ筆が生きていた時間へ。記録上、最後に確実な1811年へ。私は論争よりも確実を信じることにした。年号が確かな絵が一点、そして日本へ渡った記録が一行。その二つが出会う地点に、蕙園がいたのかもしれない。私の物語は1813年からではなく、1811年から始まる。

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《故事人物図》は、中国の『三国志演義』の一場面を描いたものである。「三顧の礼」という故事を描いたものであり、白い道袍をまとい岩に腰掛ける老人は草廬に隠棲していた諸葛亮であり、鮮やかな赤い衣の童子は、劉備が三度足を運んだ誠意を象徴する使者である。

 

申潤福は、劉備が草庵を三度訪ねるという物語を、わずか二人の人物に圧縮した。説明は省略し、感情だけを残した。背景をすべて空にし、三角構図で視線を二人のみに集中させる。最も緊張する瞬間、賢者が世に出る直前の刹那である。

 

この故事は朝鮮の士大夫にとっても馴染み深いものであったが、江戸時代の日本において特に崇敬されていた物語でもあった。日本の武士たちは諸葛亮を軍師の神として崇め、『三国志』は江戸の武家にとって必読の書であった。朝鮮通信使がこのような中国故事図をもたらしたという点に、当時の交流の文脈を読み取ることができる。

 

​​かつて日本の収集家が所蔵していたこの《故事人物図》は、2008年に韓国の個人収集家によって購入され、約200年ぶりに韓国へ戻り、2015年の国立古宮博物館での展示などを通じて公開された。現在は所蔵者の事情により一般公開されておらず、正確な所蔵状況は確認中である。彼が朝鮮の名、蕙園として残した最後の作品の行方は、依然として多くの問いを残している。

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これは蕙園が描いた中国故事の絵だ。朝鮮で両班と妓生を描いていた画員の世界観が拡張された瞬間だ。もし彼の落款がなければ、この絵の作者は当然中国人だと思われただろう。でも彼は本当に賢かった。そこに「朝鮮國蕙園」とはっきり書き記している。朝鮮の画家、蕙園が描いたのだと。まるでミケランジェロが《ピエタ》に自分の名を刻んだように、後世の人が混同しないように落款と共に終止符を打ったんだ。しかも朝鮮で紹介するための絵じゃなく、日本へ向かう朝鮮通信使が持っていった絵に、だよ。私はその一文に感嘆した。自分のアイデンティティを世に知らしめるその一文、「朝鮮國蕙園」。私は彼の表現に完全に魅了されてしまった。

故事人物図、申潤福(1811年)

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蕙園は華麗な男だった。そんな天才が路上でみすぼらしい商業用の山水画を売ったっていう通説は、彼の美学と矛盾する。正祖が崩御した1800年以降、朝鮮は純祖・憲宗・哲宗の三代にわたって勢道政治に蝕まれ始めた。それは凄惨な没落の序幕だ。あれほど華麗な美学の持ち主が、それが分からないはずがない。同じ頃、日本は西洋の文物を積極的に受け入れて明治維新で近代国家へと生まれ変わろうとしていたのに、朝鮮は性理学の名分論にばかり埋もれて、勢道家たちが自分の飯の種を太らせるのに汲々としていた。哲宗の後を継いだ高宗が即位と同時に勢道政治を打破したけど、すでに国の土台は取り返しがつかないほど崩れた後だった。1813年、純祖13年。その腐りきった勢道政治に民が生きていけないと泣き叫んでいたあの癸酉年に、山水画だって?平安道では洪景来の乱で数千人が死んだ。朝廷では安東金氏の勢道政治が始まって国の綱紀が崩れ落ちた年だ。腐りきった勢道政治に民が生きていけないと泣き叫んでいたそんな年に、55歳の画員申潤福が腹を空かせて路上で絵を売らなきゃいけなかったっていう人が、四幅の山水屏風を背負って悠々自適に山水を遊覧しながら行旅風俗図を描いたって?話になるか。辛い現実を忘れようと描いたのかとも考えてみたけど、彼のスタイルとは違いすぎて全然感情移入できない作品だった。困窮した者の絵には困窮が滲むはずだ。その時代の絵にはその時代の血の匂いが滲むはずだ。でもこの屏風には何の匂いもない。ただ平穏な山水があるだけだ。わずか2年しか違わない1811年の《故事人物図》とはあまりにも対照的なこの何とも言えない違和感。これ以上何で説明するんだ。たとえこの1813年の絵が真筆だったとしても、図画署から追い出されて金が底をつき顔料も買えずにみすぼらしく描いた彼の晩年作だとしたら、このみすぼらしさ自体がそのまま脱出の動機になり得る。だから問う。1813年、申潤福は果たして朝鮮にいたのだろうか。

第5章 1811年、申潤福はその船に乗ったのか――中人の生、性理学の二重基準、そして最後の朝鮮通信使

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5.1 中人としての身分的限界と芸術家の過酷な生

 

申潤福(1758〜?)は朝鮮の中人画家である。父の申漢枰も図画署の画員であった。朝鮮社会において画員は中人身分であった。両班が趣味で絵を描けば風流として認められたが、中人が絵で生計を立てれば賤業として蔑まれた。図画署は厳然たる官庁であったが、画員の俸禄は僅少であった。作品は両班の舎廊房を飾ったが、当の画員は大門の外で待たねばならなかった。作品は貴く扱われるが作家は貴く扱われないという二重構造が、朝鮮の芸術家の現実であった。

 

5.2 1800年以降の勢道政治と図画署の予算削減、そして追放

 

1800年6月28日、正祖の昇遐後、純祖の即位とともに安東金氏の勢道政治が始まり、図画署の予算は削減される。画員は生計型職業である。制度圏から排除された画員が生計のために外部へ目を向けるのは合理的な選択である。

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申潤福は風俗画、とりわけ美人図・春画で名を馳せた。性理学を国是とする朝鮮において、美人図・春画は流配の対象であった。両班は陰で密かに楽しみながら、表沙汰になれば画員を処罰するという二重基準が存在した。正祖の御代には黙認されていた風俗画が、純祖即位後には追放の事由となる。『朝鮮王朝実録』には1800年代初頭、猥褻風俗取締の記事が増加する。結局、申潤福は図画署から追放される。正確な追放年は記録にないが、『蕙園風俗図帖』(1805年頃)以降、公式な官職記録は途絶える。飢えた天才画家が行くあてはなかった。国内ではもはや絵を売ることができなかった。

 

5.3 朝鮮と日本の法的・経済的差異――龍と美人図が金になる国

 

朝鮮において龍(五爪龍)の図像描写は王室専有物として厳格に統制されており、民間での無断使用は処罰対象であった。美人図・春画は猥褻物と規定され流配の事由であった。国内では売ることも描くこともできない絵であった。

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一方日本では、龍文様は最高の粋の象徴であり、春画・美人画が最高の高額ジャンルであった。

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経済的差異も決定的である。朝鮮の藍・臙脂は国内自生で安価だが退色が早い。日本のベロ藍は長崎出島を通じて輸入される高価な無機顔料で、200年を経ても鮮やかな彩度を維持する。最高の画家が最高の顔料を用いるのは当然の選択である。

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無論、1811年の日本も江戸幕府末期の暗黒期であった。幕府の奢侈禁止令により華麗な絵は表向き取締対象であった。しかし朝鮮とは異なった。朝鮮が両班の二重基準により陰で楽しみ表では処罰したとすれば、日本では幕府が禁止しても巨大な地下経済が存在した。江戸の豪商、京都・大坂の商人組織は幕府の目を避けて春画と美人図をさらに高い値で取引した。禁止されればされるほど、値は上がった。

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すなわち、朝鮮は売れば死ぬ国であり、日本は売ればさらに高くなる国であった。飢えた天才が行く先は決まっていた。

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1811年は最後の朝鮮通信使が派遣された年である。既存の通信使航路を通じた顔料密輸ルートが存在していた時期であり、逆方向の移動が可能であった最後の脱出口であった。

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5.4 朝鮮通信使1811年辛未通信使――最後の不完全使行の構造と着想点

 

1811年の辛未通信使は、朝鮮と日本の外交史において極めて特殊な使行である。

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  • 正式名称:辛未通信使

  • 派遣年:1811年(純祖11年)

  • 正使:金履喬(1764-1832)

  • 目的:徳川家斉将軍襲職祝賀。『朝鮮王朝実録』には「日本国王世子冊封」祝賀として記録

  • 従来との相違:従来の11回(1607年〜1764年)はすべて江戸まで赴いたが、1811年使行は江戸城火災、凶年、財政負担、日本国内の混乱により、江戸入城なしに対馬厳原での国書交換のみで終了した易地聘礼である。すなわち不完全使行である。この不完全性こそが逆方向の移動・密航を可能にした構造的隙間である。

 

学術的意義:朝鮮通信使学会の論考によれば、1811年以降も朝鮮と幕府、対馬藩は通信使再開のため交渉を継続した。「From 1811 onward, the dispatch of Joseon delegations was repeatedly postponed...」すなわち公式使行は途絶えたが、倭館ラインは生きていた。これは1811年が断絶ではなく、非公式な移動が可能であった過渡期であったことを意味する。

 

この不完全性が本稿の着想点である。江戸まで赴く公式ルートではなく、対馬の倭館現場で訳官同士の実質的交渉が行われた。日本側通訳小田幾五郎の記録には、釜山倭館の公式記録には現れない実際の交換が相当量存在したと、朝鮮通信使学会の論考は記す。すなわち倭館の訳官こそが真の外交・密貿易の窓口であり、人員移動が公式記録に残らず密かに行われ得る構造であった。

 

申潤福の没年未詳が1800年代初頭であるという点と、1811年対馬使行という点は重なる。彼は正式な随行員ではなく、訳官の親族資格で対馬まで赴く船に密かに乗った可能性がある。対馬は朝鮮と日本の中間寄港地であり、ここで日本側の船に乗り換えれば大坂、京都、江戸へ赴くことができる。完全な使行では逃げることはできない。不完全な使行においてのみ逃げることができる。1811年は、だからこそ最後の脱出口であった。

5.5 外戚の訳官・皮宗正――対馬への同行と消失

 

申潤福の外家には皮氏姓を持つ訳官、皮宗正がいた。朝鮮後期の中人画家家門と訳官家門は姻戚関係で緊密に結ばれていた。図画署の画員も釜山倭館の訳官も共に中人階層に属し、同一の倭館ラインを通じて活動した。朝鮮時代の訳官は、中人の中でも倭館勤務経験者を中心に選抜され、日本語通訳を超えて顔料・書籍・陶磁器などの文物密貿易の実務を担っていた。

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1811年辛未通信使(易地聘礼)の名簿には、正使金履喬をはじめ製述官、書記、訳官、画員、医員、馬頭などが含まれる。定員は流動的であり、当時の慣行上、訳官家門は俸禄を受けない私的随行員である権率――子弟・親戚・家奴を含む――を公式名簿とは別に同伴することが可能であった。倭館訳官と図画署画員は代表的な権率運用職群であった。本稿では皮宗正が倭館通訳を通じて日本側訳官と顔料・書籍交易を行っていた人物と推定し、1811年使行に通訳として加わった可能性に注目する。

 

彼は1811年旧暦3月に釜山を出発し、対馬厳原で日本側代表と対面する場に通訳として同席する。この場で彼は単なる通訳に止まらず、朝鮮画工の絵を日本に紹介するブローカー役を果たした可能性がある。通信使帰還(旧暦7月釜山)後、『朝鮮王朝実録』1811-1812年倭館訳官名簿、対馬藩宗家文書、小田幾五郎記録など現在確認しうる公式記録において、皮宗正のその後の行跡は確認されない。1812年以降、戸籍・族譜上でも削除あるいは脱落したものと見られ、墓所、死亡記録、子孫記録もまた確認されない。

 

本稿はこの点に注目する。外戚訳官・皮宗正の対馬同行――帰還――消失。彼が単なる通訳ではなく、飢えた天才外甥を連れて日本の画房に繋いだ人物、すなわち今日でいうブローカーでありビジネスディレクターであったとしたら?

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無論物証はないため、あくまで仮説として提示する。外戚であり訳官である皮宗正の依頼によって描かれた絵が、まさに前述した申潤福の《故事人物図》(1811年)である。中人ネットワークにおいて外叔が甥を生かすことは、その時代において最も自然なことであった。

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現在伝わる《故事人物図》の制作年は、日本側史料と韓国側記録の交差検証が可能である。対馬藩文書、『通信使日録』、接待記録など一次史料によれば、最後の朝鮮通信使は1811年(純祖11年)辛未通信使であり、正使金履喬、副使李勉求一行が対馬厳原で接待されたのが最後である。皮宗正が対馬に赴いた年は韓国側記録上1811年である。彼が《故事人物図》の粉本を持参した年が1811年であるならば、その粉本の制作時点もまた1811年作と見るのが最も自然である。

 

重要なのは使行の日程である。1811年易地聘礼は釜山出発(旧暦3月)から帰還(旧暦7月)まで約4ヶ月の滞在期間を有した。対馬厳原滞留中、正式名簿の訳官は記録に残るが、俸禄のない権率資格の私的随行員は公式名簿に載らなかった。すなわち、皮宗正がもし権率身分であったならば、その移動は史料に残らない構造であった。正式訳官の離脱は外交事件として必ず記録されるが、権率など非公式随行員の離脱は公式史料に残らないという構造的特性がある。もし帰還過程で病死あるいは溺死事故として処理されたとすれば、中人身分である彼の死は『朝鮮王朝実録』など官撰史料に記録される可能性は低い。1811年使行の釜山‐対馬滞在期間が約4ヶ月に及ぶことを考慮すれば、対馬で船舶を乗り換えて大坂、京都などへ移動するには十分な物理的時間が確保される。

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5.6 釜山倭館でベロ藍を入手し、すでに裏彩色を施していた画家

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申潤福は既に朝鮮において日本顔料を入手して用いていた。《蕙園風俗図帖》の青いチマを見よ。朝鮮伝統の藍は有機顔料であり100年経てば黄変する。しかし申潤福の青は200年を経た今も鮮やかである。無機顔料であるベロ藍の特徴である。

 

どこで入手したのか。釜山倭館である。18世紀末、東萊倭館を通じて長崎のベロ顔料が密輸入され、申潤福はその高価な顔料を購入して既に裏彩色に用いていた。これは《蕙園風俗図帖》の顔料分析におけるベロ藍検出として確認されている。

 

朝鮮では龍を描けば謀反、美人図を描けば流配であるが、日本の倭館ではそれが金になる。申潤福が日本顔料の鮮やかさと日本市場の需要を倭館を通じて既に認知していたという点は、彼の日本行きの動機を物質的側面から説明する重要な手がかりである。

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蕙園の没年が未詳だってことは注目せざるを得ない。『朝鮮王朝実録』にも『承政院日記』にも、族譜のどこにも死亡記録がない。同じ時代の画家・金弘道は死んだ後も弟子、財産、墓所の記録が残っているのに、申潤福だけがない。なぜだ?図画署から追放されてただ惨めに暮らして死んだっていう今までの説明じゃ説明にならない。1811年に「朝鮮國蕙園」と堂々と自分の名を掲げた絵を描いた、朝鮮最高の画員が、わずか数年後に行方不明だって?これは国外脱出の可能性を想像させる。私はこれを断定じゃなくて仮説の出発点にする。もし彼があの船に乗ったとしたら?彼はあの絵だけを持って行ったんだろうか?

第6章 彼はその絵だけを持って行ったのだろうか――春画ポートフォリオ、想像を超えて

本稿はここで想像をクライマックスへと拡張する。物証はないため、あくまで破格の仮説として提示する。

 

もし1811年対馬行きの船に申潤福が皮氏訳官の親族資格で密かに乗ったとしたら、彼は《故事人物図》一枚だけを持って行っただろうか。

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外戚の訳官・皮宗正と画員・申潤福。この二人は外叔と甥の関係であるが、1811年当時申潤福は満53歳であり、その母方洪川皮氏家門の外叔格である皮宗正も史料上正確な生年はないものの、家系構造上5〜10歳ほど上の50代後半から60代初頭であったと推定される。人生の酸いも甘いも知り尽くした渋みの濃い中年たちであった。中人身分ではあったが、彼らにとって日本は朝鮮の身分制が適用されない異国であったはずであり、たとえ申潤福が日本語を解さなかったとしても、外叔皮宗正が日本語を自在に操る訳官であったため、今日でいうマネージャー、ビジネスディレクターとして同行し得た点を看過できない。

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想像してみよ。60代初めあるいは50代後半の外叔と50代初めの甥、二人の渋みの濃い中年が日本の宿の一間で自らの画帖を広げ、日本最高の遊女と酒を酌み交わす場面を。朝鮮では蔑まれた中人と追放された画員であったが、そこでは誰の目も憚らない異国の来訪者と、朝鮮初のグローバルな画家であったということを。

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彼は春画ゆえに図画署から追放された天才画家である。朝鮮では春画は流配対象であるが、日本では春画が最高額のジャンルであった。葛飾北斎、渓斎英泉、歌川国貞、皆春画で生計を立てた。私が最初に見た一枚、龍文様打掛をまとった花魁。その文化自体が春画と地続きである。

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朝鮮通信使が来れば必ず歓待宴が開かれる。酒宴が深まれば、公式な外交贈答品である《故事人物図》の他に、密かに携えた画帖一葉を取り出さなかっただろうか。日本の大名・豪商たちは朝鮮式春画に強い関心を示したはずである。飢えた天才が日本へ赴くならば、当然もう一つの朝鮮式春画ポートフォリオを携えたであろう。

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想像してみよ。対馬倭館の一室、あるいは厳原での歓待宴が終わった後の密かな酒席で、皮氏訳官が日本の版元に画帖を広げて見せる場面を。大名の助力で日本国内の他地域、大坂・江戸行きの船便を得る過程でも、この春画一葉は最も強力な名刺となったであろう。「朝鮮最高画員の春画」という噂が大坂まで、京都まで、江戸まで広がれば、日本の他地域へ渡ることは十分に可能である。しかし春画という特性上、極秘裏に進行したはずであり、静かに、極めて静かに進められた内密の披露の如きものであったであろう。​​​​

左:申潤福<月夜密会>、右:<舟遊清江> / 『蕙園伝神帖』(『蕙園風俗図帖』)中 - 澗松美術館所蔵 / 1805年頃

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《故事人物図》が公式手続きに従った外交用贈答品であったとすれば、もう一方は韓服の裾を翻した女性、藪に隠れる男女、妖艶な目の下の黒子、ベロ藍のチマと臙脂あるいは朱砂の唇の対比が鮮やかな朝鮮式春画帖10葉である。朝鮮の春画帖形式を日本春画形式に変容させたポートフォリオである。例えば《月夜密会》《舟遊清江》など申潤福春画帖に登場する構図を日本式座敷に置き換えたものであっただろう。今理解できるだろうか。その酒席での春画一葉、朝鮮様式による日本春画一葉が及ぼす破格的な効果を。彼を繋いだ版元にとっても申潤福にとっても、双方に経済的利益をもたらす独特な状況であったことを。

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​無論1811年の日本といえども春画が合法であったわけではない。江戸幕府末期、奢侈禁止令により華美な絵は表向き取締対象であった。しかし申潤福が足を踏み入れたのは表ではなく裏であった。朝鮮が両班の体面のために春画を陰で処罰したとすれば、江戸は異なった。禁止令が出れば出るほど闇市場は拡大した。江戸末期の取締の際、幕府が取り締まれば豪商は商いができない。その時場所を提供し場を整えたのが博徒・的屋の組織である。豪商が資金を、博徒が武力を、的屋が流通を担う。この三者が結びついたものが後にいわゆるやくざと呼ばれるものである。幕府の目を避けて京都、大坂の豪商と彼らを庇護する組織が美人画と春画を取引する巨大な地下経済を形成した。そこでは取締がすなわち値札であった。禁止されればされるほど高値で取引された。

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禁止されればされるほど購買欲を刺激する人間の欲望に、朝鮮の天才画員申潤福の筆致が結びついた独自の日本春画が登場するとしたら。これは途方もない破格そのものであろう。

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想像してみよ。その闇市場の一角、灯り一つだけがともされた座敷で、日本の商人組織の頭目格である豪商が申潤福の絵を広げる場面を。彼は既に《蕙園伝神帖》で朝鮮を描き、朝鮮通信使の外交贈答品として中国の故事図を描き、今や日本の春画を描いている場面を。これまで江戸で見たことのない申潤福様式による日本式春画である。同じ艶やかさでも肌触りが異なる。日本の春画が誇張された体位と戯画的表情に重きを置くとすれば、申潤福の春画はチマの裾、藪に隠された足首、目の下の黒子一つ、ベロ藍のチマと紅い唇の対比から立ち上る妖艶な気配にある。仄かでありながらより艶めかしい。

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真贋を見極められる商人なら一目で分かる。これは単なる商品ではなく独占権であると。「朝鮮最高画員の春画」という肩書き一つが江戸の地下経済全体を揺るがす名刺になるということを。だから彼は問わない。値を問わない。代わりに扉に鍵をかける。その夜、申潤福の10葉20葉は市場から消える。取引されたのではなく、秘蔵されたのである。奉ることができないのであれば、誰にも渡すまいという魂胆である。だから申潤福の日本行きは極秘の披露でしかあり得なかった。あまりに危険で、あまりに高価であったからである。彼の作品価値を理解しようとしなかった朝鮮とは異なり、日本にはこのような豪商があまりにも多かったためであろう。

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その前は朝鮮を代表する画家として描かれた絵であったとすれば、その後はただ朝鮮式に仄かに艶めかしい絵のみを描いたはずがない。あまりに露骨であったため日本でも流通が困難であったか、あるいは陶磁器絵や枕絵など他の形態に変容して売られた可能性もある。あるいは訳官皮宗正の許に秘蔵されたまま失われた可能性もある。そのような絵は表立って携行できるものではない。朝鮮で追放された理由そのものであったから。だからこそより隠密に、より深くこの世から姿を消したのであろう。

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​​​​率直に言えば、春画ゆえに官職を追われた朝鮮画家が日本へ赴きながら、ただ風景画や山水画のみを携えたというのは、経済的常識に合わないばかりか考え難い。ポートフォリオを携えたという想像は十分に妥当である。彼は天才であり生存型芸術家であったため、一葉ではなく10葉、20葉を携えたであろう。

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この想像のクライマックスは、本稿の仮説2「追加作品搬出の可能性に対する美術史的推定」を想起させる。無論想像ではあるが、1811年という同一の年代、大名・豪商の経済的動機、通信使歓待宴という舞台、そして日本で最高値であった春画というジャンルがすべて合致する時、申潤福の日本行きは十分に可能なシナリオとなる。​​​​

第7章 二つの仮説+春画ポートフォリオ仮説の統合的考察――想像は尽きない、判断は読者に

仮説1. 影響仮説――霊感仮説が成立する理由(第2章・第3章の根拠統合)

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本仮説は確定しない。ただ第2章と第3章で確認した事実を根拠に、影響の可能性を提示する。

 

1. 形態的同一性――第2章の根拠

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第一に、背景の省略。金弘道・金得臣は山水と家屋で物語を満たし、喜多川歌麿・鳥居清長も柱と建具を描く。しかし申潤福《美人図》と春扇《龍文様の打掛をまとう花魁》は共に背景を白紙として消した。朝鮮と日本でそれぞれ破格とされる構図が、同一の地点で出会う。

 

第二に、衣装シルエット。申潤福のチマはS字曲線の鐘形である。実際の韓服ではなく曲線美を極大化した理想化である。日本打掛の定石は円筒形による垂直の襞である。しかし《龍文様の打掛をまとう花魁》の裾は垂直ではなく、韓服と同一の鐘形S字曲線である。刀で彫る木版でこの柔らかな曲線を実現したことは、日本の絵師集団内部の慣性的変形だけでは説明し難い。(3.3)

 

第三に、細筆の筆癖と顔貌造形。紅を点のように打ち上げる妖艶な彩色、極細筆の運用、逆三角形の顔貌と三白眼、実際より二倍高く盛られた加髢/髷。両美人は同じ造形語彙を共有する。

 

2. 顔料と技法から見た翻訳の過程――第3章の根拠

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第四に、顔料の選択。申潤福は《蕙園風俗図帖》(1805年頃)から主人公にのみ朱砂とベロ藍を用いる天才的な色彩感覚を示す。(3.1、3.2)春扇の初摺《龍文様の打掛をまとう花魁》(1810年頃)では龍文様は高価なベロ藍ではなく黒で摺られたが、1830〜40年代の後摺で初めて鮮やかなベロ藍へと変わる。(3.4)1830年代の藍摺絵流行と結びついた版元の再版、すなわち流通の持続性である。

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第五に、相違点の解釈。目の下の陰影(涙黒子)の有無である。(3.5)申潤福においては妖艶さを加える筆癖であるが、春扇にはない。本稿はこれを技術的限界とは見なさない。胡麻摺りによる点描が可能な木版において、白玉のような肌を理想とする浮世絵の規範による選択的省略として解釈するのが妥当である。消された一点が、むしろ翻訳の証拠となる。

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これらの事実を根拠に仮説1を立てる。春扇が申潤福図像を見て、描けずに変えたのではなく、日本式に翻訳した可能性。circaの推定年代であるため、1810年以前の流入も排除できない。

 

仮説2. 追加作品搬出の可能性に関する推定(第5章・第6章の根拠統合)

 

本仮説は確定しない。ただ第5章と第6章で確認した事実を根拠に、追加作品搬出の可能性を提示する。

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1. 中人が行く場所はなかった――5.1、5.2、5.3の根拠

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申潤福は中人画家である。1800年正祖没後の勢道政治により図画署予算は削減され、性理学の二重基準により美人図・春画は取締対象となる。(5.1、5.2)公式な官職記録は1805年頃《蕙園風俗図帖》以降途絶える。法的・経済的差異も決定的である。朝鮮で龍図像と春画は処罰対象であったが、日本では龍文様が粋の象徴であり春画は最高額ジャンルであった。朝鮮は売れば処罰される国であり、日本は禁止されればされるほど闇市場で高値で取引される国であった。(5.3)

 

2. 1811年は最後の脱出口であった――5.4、5.5、5.6の根拠

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1811年辛未通信使は江戸入城なく対馬厳原で終わった不完全使行、易地聘礼である。この不完全性が構造的隙間である。正式名簿の訳官は記録に残るが、権率資格の私的随行員は公式名簿に載らない。正式訳官の離脱は外交事件であるが、権率の離脱は史料に残らない構造である。(5.4)

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外戚の訳官・皮宗正の存在である。中人画員・訳官家門は姻戚で絡み合っており、訳官は倭館ラインの密貿易を担った。彼は1811年対馬通訳として同席した可能性があり、通信使帰還後、公式記録において足跡は確認されない。本稿では彼が単なる通訳ではなく、外甥を日本の画房に繋いだブローカーであった可能性に注目する。(5.5)

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最後に顔料の証拠である。申潤福は既に朝鮮において釜山倭館を通じて密輸されたベロ藍を入手し、裏彩色に用いていた。200年を経ても褪せない青色は、彼の日本市場に対する認知を物質的に説明する。(5.6)

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これらの事実を根拠に仮説2を立てる。もし1811年対馬行きの船に申潤福が権率資格で乗ったとすれば、外交用贈答品である《故事人物図》一枚だけを携えたという可能性は経済的合理性に合わない。追加的な朝鮮式春画ポートフォリオが同伴された可能性。物証はないため、あくまで仮説として提示する。​​​​

第8章 結論――二つの美人図は共に国宝である

本稿は一つの問いから始まった。

 

なぜ彼の死は記録されなかったのか。

 

蕙園申潤福。朝鮮最高の美人図を描いた画員。彼の没年は未詳である。『朝鮮王朝実録』にも『承政院日記』にも、彼の死を知らせる一行がない。私はその空白からこの想像を始めた。

 

本稿は真実を知っていると主張しない。申潤福が日本へ渡ったという物証はない。だから断定しない。ただ記録されなかった空白に、絵が残した痕跡を総体的に記録しただけである。ベロ藍の鮮やかな発色、韓服のように膨らんだ打掛の鐘形シルエット、背景を消した破格、そして天才の筆力は狭い時間幅では崩壊しないという常識。一つ一つは偶然かもしれない。しかしそれらが一人の画家の同時期に集合的に現れる時、私は問いを止めることができなかった。

 

そしてついに私はこの問いに至った。誰が誰のコピーかを論じることは無意味である。重要なのはこの二つの絵が共に国宝級の傑作であるという事実である。澗松美術館の《美人図》が韓国の宝であるように、大英博物館所蔵の《龍文様の打掛をまとう花魁(黒龍版)》は日本美学の頂点を極めた国宝級の傑作である。たとえ木版画という特性上、1810年頃の黒龍版と後摺である1830〜1840年頃の青龍版の双方を国宝と称することはできなくとも、その中に込められた美的達成は国宝と呼んで遜色がない。個人的にはアメリカ・サンフランシスコのLegion of Honorが所蔵する青龍版をより好むが。私の頭の中に焼き付いたあの鮮やかな青を今も忘れることができない。

 

二つの美人図は共に、それぞれの国で国宝として遇されるに相応しい。本稿はその二つの傑作が、ひょっとしたら同じ根から出会ったのかもしれないという、一人のデジタルクリエイターの想像を記録したものである。本稿が日韓間の葛藤ではなく、絵をより詳しく見るきっかけになることを願う。

 

証拠がないゆえに本稿は想像として残る。今後、X線蛍光分析と版木樹種分析、対馬宗家文書の再調査を通じて、この想像が検証あるいは反証されることを期待する。

 

最後の想像一つだけを添えて筆を擱きたい。

 

1811年、対馬。不完全な通信使の最後の夜。日本側が主催した宴席。酒が入った朝鮮の訳官と、その傍らに座る朝鮮最高の画員。

 

その画員は、本当に線一本軽く引いた粉本だけを見せて帰ってきたのだろうか。酒席の濃い冗談の中、懐からそっと取り出して見せた絵一葉はなかったのだろうか。

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「朝鮮にはこんな絵もある」と。

 

その一葉が密かな交易の始まりだったのかもしれない。そしてその一葉が、二つの美人図を似せた始まりだったのかもしれない。

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真実は分からない。ただ私は、もし私が申潤福であったなら行ったであろう。芸術家として絵に翼を与えられる場所、顔料を心置きなく求められる場所、何よりも自分の美人図を分かってくれる場所へ。その当時彼にとっての新世界は、日本だったであろう。

第9章 研究倫理に関する記述

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本稿の著者aushaneleeは、不遇のうちに没年未詳となった朝鮮の天才画家申潤福に着目し、日本へ赴いた可能性について想像を展開した。金を稼ぎ、食べて生きねばならなかったからである。中人として生まれ、性理学の二重基準の中で芸術家としての困窮を生き、やがて退けられた彼の人生、その屈曲を知ればこそ、日本行きという説はより説得力を持つと考える。

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その没年未詳の時期に彼の画風を想起させる国宝級の傑作が日本で登場する点、朝鮮の衰退期と時期が重なる点、1811年の最後の通信使が対馬で終わった不完全使行であった点、外戚の訳官・皮宗正が対馬随行後に消息を絶つ点――これらを起点とした仮説である。

 

本稿は日本側の作品を貶める意図は一切なく、作品の中に申潤福の特徴を見出したことから立てた仮説に過ぎず、読者を欺く意図が一切ないことをここに明らかにする。私はただ、この絵から申潤福の美人図を日本様式として感じただけである。そして彼が朝鮮では春画ゆえに追われ認められなかった天才であったとすれば、日本では春画によって認められる天才となり、富を得ることもできたのではないかという経済的想像を添えて、本稿を終える。

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参考文献

  • British Museum, Collection Online, Oiran wearing black uchikake with dragon motif

  • Lyon Collection, Woodblock Prints Database, Katsukawa Shunsen, Kakemono of an oiran in a black uchikake decorated with a dragon in a night sky [1810c Shunsen lineless]

  • Bonhams, London, Japanese Woodblock Prints, 5 Nov 2009, Lot 67

  • Invaluable, Auction Database, Katsukawa Shunsen Kakemono-e sales record

  • Wikipedia, Katsukawa Shunsen biography, late 1820s ceased prints and devoted to ceramics

  • Artelino, Katsukawa Shunsen - Ukiyo-e Print Designer and Ceramic Painter

  • Wikipedia, Joseon Tongsinsa, 1811 Tongsinsa incomplete Tsushima

  • 朝鮮通信使学会, 「1811年辛未通信使正使金履喬の官服考証」『朝鮮通信使研究』Vol.31

  • 文化財庁国家文化遺産ポータル, 国宝・宝物指定現況

  • 『朝鮮王朝実録』『承政院日記』、族譜、東萊府倭館別差名簿、対馬宗家文書、皮宗正関連文書

  • 『正祖実録』『純祖実録』、図画署関連記録

  • 金弘道《松下猛虎図》《竹下猛虎図》

  • 申潤福《蕙園風俗図帖》《美人図》

エピローグ――燃えなかった絵を探して

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どれほど彼の春画が艶めかしかったら、図画署から追放されるほどだったのだろうか。

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本当に気になる。あまりにも見たい絵だが、現存しない絵である。朝鮮の名妓生・黄真伊(1506〜1567)のように、彼女は詩文だけでなく画技にも秀でていたと伝えられるが、今や彼女の絵は一点も残っていないのが韓国ではないか。朝鮮で彼女は賤民であり、申潤福は中人であった。さらに言う必要があるだろうか。

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この文章は論文ではない。序論・本論・結論の形式を借りただけで、学術的完成度は0点の架空説である。

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私は一つだけ想像した。もし蕙園申潤福が1811年、世間の指弾と記録の抹消を避けて日本へ渡ったとしたら。

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1811年は最後の朝鮮通信使が対馬を往来した年である。蕙園の最後の絵の記録もその辺りで途切れる。通信使の画員として編入されたにせよ、倭館の商船に乗ったにせよ、消えるには最ももっともらしい年が1811年である。

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天才はどこでも絵を描く。どう生きようと腕前は隠せない。彼が日本のどこかの寺、あるいは倭館の畳の間で筆を執ったなら、彼はきっと日本の春画の文法ではなく、朝鮮の文法で艶を描いたであろう。私はその痕跡を探して日本に現存する春画を検索した。そしてすぐに壁に突き当たった。春画は博物館のガラスケースの中の遺物ではない。300年間、大名の秘密の引き出しから銀座の個人蔵の金庫へ、隠密に継承されてきた私的な歴史である。猥褻な絵という理由でインターネットには目録すら存在しない。だから証明できなかった。だからこの文章はファクションとして残る。

 

しかしもし、本当にもしそうであったなら。彼はきっとこう描いたであろう。この絵のように。​​​​​​​

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日本春画のように誇張し捻じ曲げることなく、朝鮮女性のチマ幅のように大胆な対角線構図で、そしてこの絵の中の女性の裾に使われたあの鮮やかな色、西洋から入ってきたばかりのベロ藍で。藍では絶対に出せない色である。朝鮮絵画においてこの華麗な輸入青は《蕙園風俗図帖》が描かれた1805年前後に本格的に登場する。それ以前の朝鮮絵画には存在しなかった色、だからこの青はすなわち時間の証拠である。1805年以後の天才のみが用い得た色。

 

韓国には彼の春画がない。すべて燃やされたからである。残っているという数点は水位の低い風俗画に過ぎず、彼の本当の欲望と天才が込められた真の春画は一点も残っていないというのが定説である。

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だから私は逆に問う。韓国になくて燃やされたものなら、日本にはあり得ないだろうか。​

《酒肆挙盃》、申潤福(1805年頃)

 

この文章を読んでおられる日本、そして世界各国におられる個人所蔵家の方々に懇ろにお願い申し上げる。

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線は刃物のように淡白か。女性の顔は朝鮮式か。そして裾にあのベロ藍が用いられているか。

蕙園の様式で描かれた春画は、きっと存在しうる。

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燃えなかった一点が、どこかに。

 あなたの収蔵庫にある作者未詳の春画一点をもう一度ご覧いただきたい。​

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朝鮮後期の画家申潤福の号は蕙園である。現在通説とされるのは蕙園を蕙草庭園、すなわち「平凡な草の庭」と解く説である。自らを卑下し、哀れで平凡な草に喩えた自嘲の号だというのである。しかしaushaneleeはこの解釈に同意しない。これは朝鮮という性理学的な視線で読んだ結果であり、儒教的でない絵を描いたという理由で絵を燃やし、記録から消してしまった時代が作ったもう一つの呪いだからである。

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1. 漢字の本義

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辞書は最後まで読まねばならない。

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蕙は第一に蕙草、すなわち草を意味するが、第二に香草を意味する。蘭科の貴重な植物で、孔子と屈原が「君子の香り」に喩えた草である。仄かだが消えず、長く残る香、絵を見た後に残る余韻を意味する。これに関連する故事はすべて称賛である。

  • 蕙質蘭心:蘭のように美しく高潔な心

  • 蕙心紈質:心は蕙草のように香ばしく、資質は白絹のように美しい人。当代最高の妓生と才女に贈られた最高の賛辞である。

 

園と苑の違い――そして混用​

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本来印章には園が用いられた。朝鮮國蕙園寫。

  • 園:垣の中の果樹園、菜園。平凡で素朴な畑。誰でも耕せる場所。

  • 苑:王室の園林・苑囿。あらゆる珍奇な動植物と美しきものを集めた国家最高のコレクション、すなわち殿堂。学問を究める場所。

 

重要なのは朝鮮後期にはこの二文字が発音が同じであるため文書においてしばしば混用されたという点である。申潤福が自ら園と書いたとしても、彼が込めた精神は園ではなく苑に近い。

 

苑もまた第一に庭園を意味するが、第二に王室の園林・苑囿を意味する。あらゆる珍奇な動植物と美しきものを集めた国家最高のコレクション、すなわち殿堂を意味する。

  • 藝苑、文苑、画苑:芸術、文学、絵が集う殿堂

  • 閨苑:美しい女性たちが集う庭園、申潤福の作品世界そのものである。

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したがって蕙と苑を結合すれば「哀れな草原」ではなく、「香しきものが集う芸術の殿堂」という意味になる。

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彼は園と書いたが、我々は今苑と読まねばならない。蕙苑 申潤福として。

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2. 新たな解釈

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申潤福は生涯妓房に出入りし、当時の両班子弟たちと交わった画家であった。月下情人、舟遊清江、年少踏青など彼が描いたのは朝鮮で最も華麗で値の高い瞬間であった。高価な顔料を惜しみなく用いた彼の画体もまた平凡さとは距離が遠い。自己のブランドである号に、自らを「平凡な草」と称する芸術家はいない。

​

蕙苑はこう読まねばならない。

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「我がギャラリー(苑)に香しき余韻(蕙)が留まる」
「香しき草がほのかに我がコレクションに留まる」

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そして一歩さらに進み、グローバルな視線で読めば次のように拡張される。

​

「全世界を庭園となす」

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ある妓生が彼の絵を見て「あなたの絵はまるで蕙苑のようです。その庭園を歩くようです」と言ったのかもしれない。その一言が号になったのだろう。誰が名付けたかは重要ではない。重要なのは隠された意味である。

​

我々は今、蕙苑を再び呼ばねばならない。彼は園と書いたが、私は今苑と読む。哀れな草に変装させられ消された蕙園ではなく、香しきギャラリーを持った芸術家、全世界を庭園としようとした朝鮮最初のグローバルアーティスト、蕙苑!申潤福!​​​​​​​​

蕙苑 申潤福の号について

2026年9月28日 aushanelee より

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「誰も彼がどこへ行ったか知らない。だが私は感じる。彼なら、より広い世界へ行ったであろう。」 - aushanelee ✍️ 

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